2014年10月12日日曜日

主日礼拝「信仰を見せて下さい」

礼拝メッセージ「信仰を見せて下さい」ヤコブの手紙2章18~19節


長谷川和雄師

「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(17)とありますから、聖書知識を知っているだけではだめです。あなたが変えられなければ意味がありません。聖書は、神を信じ、イエス・キリストを唯一の救い主と信じ受け入れる信仰は、単に心の中や口先だけで終わらないで、その与えられた信仰にふさわしい行動が伴いますと言っています。今、私たちの信仰生活を吟味しましょう。

Ⅰ、信仰と行い…
信仰が救いの根拠であると教えられた者にとって、この箇所は行いを強調しすぎて、律法的だなどと反論したくなるでしょう。その反論の状況が18節以下に記されています。「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と反論する人は、自分にも行いがあると自信を持って語っています。反論者はそれぞれの生き方に相違があるのは当然です。ある人には信仰の内面が豊に与えられ、他の人には豊な行いが与えられています。人それぞれに、聖霊によって与えられる賜物が異なっています(Iコリント12:4-10)。だから、信仰と行いとは必ずしも結びつける必要はないのであり、信仰と行いは分けて考えるべきであると反論しているのです。ここで、聖霊の賜物の多様性を否定することではありませんが、十字架と復活の主の愛と憐れみに満ちた御業に対する信仰があるなら、その恵みに対する感謝の応答としての働きが伴うのは当然ではないでしょうか。私たちの信仰は単なる教えを受け入れ、教えの知的な理解にとどまるのでなく、もっと大切なことは、今も生きておられるキリストが、私たちを生かして下さっておられることではないでしょうか。その活ける主が、私たちを信仰の行いへと促しておられることを正しく素直に受け止め、いかに応えてゆくべきかを考え、具体的な行動によって主の愛に応えるものであらせていただきましょう。社会生活の中でクリスチャンとして、キリストを信じる信仰の旗印を明確にして歩もうとする時に、キリストに倣った歩み、信仰に裏打ちされた良い行いが生まれてきます。信仰と行いが、クリスチャンの信仰が内面のこととして終わらないで、偽善ではなく、内から湧き出る、目に見えるものとして表に現れてくることこそ、願わしいクリスチャンの生き方であり、願わしい教会の姿ではないでしょうか(エペソ2:8-10)。

Ⅱ、行いの伴った信仰(19)…
聖書は、知的な理解に留まっている信仰の空しい例を挙げて説明しています。「神はただひとりである」との信仰の教理を正しく理解しましょう(申命記6:4-5)。主も、「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」(マルコ12:29)と言われました。しかし、悪霊も神がただひとりであることを知り、恐れの叫びをしています(マタイ8:29)。しかし悪霊は、神を畏れ敬う敬虔から、悔改めと服従、神への奉仕に結び付かないのです。しかし、聖書は、神を知っていることと、行いとの分離を否定します(テトス1:16、Ⅰヨハネ2:4)。神の前に真実なクリスチャンは、御子が私たちを愛し、救いに必要な御業を全て成して下さったことに応え、偽善からではなく、誠実で具体的な行いが生まれます。このようなクリスチャンの生き方に、私たちは召されています(Ⅱコリント5:15)。キリストと深い交わりから、第一コリント書13章の愛に照らされると、本当の信仰は深い悔改めと、謙遜が生み出されます。日々、神のみこころを求め、神のみこころに従うクリスチャン生活の歩みをいたしましょう。



教会の各活動


午後は、CS教師会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月14日)10:30~


聖書:Ⅰコリント書10章14節
題:偶像礼拝を避けなさい
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:390、38


○聖書研究祈祷会 水曜日(10月15日)19:30~


聖書:マルコによる福音書12章18-27節
題:生きている者の神
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:467、38、465


○主日歓迎礼拝 来週日曜日(19日)10:30~


招詞:詩篇95篇1-3節
交読文:36  詩篇116篇
聖書:イザヤ書12章1-3節
題:神は我が救い
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:8、297、311

2014年10月5日日曜日

主日礼拝「信仰を見せて下さい」

礼拝メッセージ「生きた信仰」ヤコブの手紙2章14~17節


長谷川和雄師

16世紀の宗教改革時代の合い言葉は、「神の栄光のために」や「聖書のみ」「ただ信仰のみ」でした。当時の教会では、救いにはお金が必要と考えました。しかし、宗教改革者たちは、人間の業により救われず、救いの主導権は神にあり、キリストの贖いの御業を信じることが「信仰義認」を得、救いには不可欠であると主張し(アウグスブルク信仰告白第4条、ローマ3:28、ガラテヤ2:16)、主の教えの原点に(マタイ9:2、マルコ5:34)立ち返る運動を行ったのでした。

Ⅰ、神の救いの御業を信じる信仰…
罪人が罪から救われ、神との交わりを回復される道は、ただ贖いの御業を信じることによって救われる道を、神が備えて下さいました。信仰により聖霊が与えられているので善き行いが出来るのです(アウグスブルク信仰告白第20条)。救いは神の憐れみのゆえに与えられる、無代価の恵みであり、神のみこころを行う者が御国に加えられるのです(マタイ7:21)。また、ガラテヤ書では愛の実践が伴った信仰こそが、大切なことですと記しています(5:6)。救いに至る信仰は、単なる知識ではなく、愛の実践が伴う全人格的なあり方であり、具体的な表れが伴い、神を心から褒めたたえる動的なものです。

Ⅱ、あなたの信仰はどのような信仰か…
「自分には信仰がある」(14)という人に、「生きた信仰とはどのようなものか」、「真に信仰と呼ばれるに値するものか」、「神が喜ぶ信仰か」を問いかけています。また、その信仰は神に支えられ、神への応答、賛美と服従、献身のしるしとしての信仰による善行が伴い、兄弟愛の実践が成されます。信仰の実である行いは、神のものとされた者に命じられ、神が受け入れて下さる業です。献げものは、神が救いと、全ての善きものを与えて下さった神の恵みに感謝して献げるものであり、神への服従と献身を表すしるしです。ですから、献げる心が問われるのです。

Ⅲ、愛の行為の伴った信仰…
具体的な例を15-16節に記します。ここでは、肉体的な飢餓で苦しんでいる人が礼拝に出席していて、その人を助けることが出来る信仰者が、具体的な必要に応えないで、言葉だけで慰め、「安心して行きなさい」(16)とユダヤ人の別れの挨拶をしたのです。これは、主が語りかけた言葉で、「平安があるように」という思いを込めた言葉であり、「安心して行きなさい」という言葉でした(ルカ7:50、8:48)。主は人の苦しみを解決した後に、その言葉を語りました。ですから、その言葉にふさわしい愛の行いが伴わない信仰は、死んだ信仰ですと記します。具体的な憐みや愛の行為を伴わないような信仰は死んだ信仰であり、そのような信仰しか持たない教会も、死んだ教会と言われても仕方がありません。私たちの教会はどうでしょうか。神が私たちにして下さつたことを、今度は私たちが私たちの兄弟にしなければならない責任を、信仰者は持っています。クリスチャンの交わりを豊かにするものは、私たちの人間的で不安定な思いや感情ではありません。クリスチャンの交わりを豊かにするものは、神が主によってなして下さり、示して下さった憐みや愛こそが、互いの関係を親しいものにするのです。それは同時に、教会のこの世に対する関わり方とあり方を決定します。そして、聖書が指し示す方向にいくらかでも歩もうとする時に、教会に生きた信仰が与えられるのです。私たちの教会にも、そのことが主によって要請されているのです。



教会の各活動


聖餐にて
午後は、教会役員会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月7日)10:30~


聖書:箴言12章22節
題:偽りのくちびる説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:202、390


○京都聖会準備祈祷会 水曜日(8日)19:30~


聖書:ルカによる福音書22章54-62節
題:イエスのまなざし説教者:吉田美穂師
新聖歌:2、98、221


○主日礼拝 来週日曜日(10月12日)10:30~


招詞:ヘブル書10章19-22節
交読文:34 詩篇108篇
聖書:ヤコブ書2章18-19節
題:信仰を見せて下さい説教者:長谷川和雄師
新聖歌:258、282、275