2014年7月13日日曜日

特別伝道礼拝「慰めの神がほめたたえられますように」

伝道礼拝メッセージ 「慰めの神がほめたたえられますように」 コリント第二の手紙1章1~7節

藤井圭子先生


藤井圭子先生
10年振り返る時、娘の結婚、孫の誕生、息子の死、母の介護と死、自分自身の病、と色々ありましたが、神は確かな希望と慰めであり、み言葉に耳を傾け慰めの神をほめたたえます。

愛する息子を事故で亡くし、ひとりの母として、とてもつらい体験をしました。病気や苦難は、たたりや前世のせいではありません。墓に葬られた主を三日目に甦えなさったことによって、主を信じたものは罪を赦され、神の力によって甦えらされ生きる者になると保証して下さっています。歴史上の事実と実体です。死は甦えりの入り口であり、主の同情は、人間のような一時的感情ではありません。私たちは神からいただく慰めによって、周りの人を慰めることができるようになります(Ⅱコリ1:1-7)。神に涙を拭い取っていただき、神の前に出させていただきましょう(黙示録21:3-4)。

次に母のことについて、どんな状況の中にも慰めの神はいて下さいます。「お母さん」のひびきに愛、ぬくもり、優しさ、匂い、苦労、悲しみの意味が含まれています。68歳のとき受洗し、その後83歳でアルツハイマー病になり、召されました。母の介護は、人間の努力では出来ませんでした。あるお医者様を通して「患者の世界を壊さないように」という神の愛と知恵をいただいて、介護をさせていただきました。母は、息子の死を理解できない状態でしたが、これも神の最善であると感謝しました。母が体内にいる時から神は白髪になって何も分からなくなっても、持ち運び背負って天国まで連れていって下さいました。主は真の慰め主、救い主であられます(イザヤ46:3-4)。


伝道集会メッセージ 「確かな希望に生かされて~尼僧からクリスチャンへ~」 ヨハネによる福音書14章1~7節

藤井圭子先生

中学生の時、隣のおばあさんが亡くなったことを通して、「なぜ生きているのか」と考え、絶対なるものを求めるようになりました。仏教を学びはじめますが悟れず、学問だけではなく実践や修行が必要だと思い、尼僧になりました。誠心誠意仏門に励みましたが、不安と恐れに襲われるだけで、真理を見出せませんでした。釈迦は悟った偉大なお方でしかなく、仏教には理性に基づいた悟りや哲学であり、観念だけで、何も実体はなく、永遠・絶対・聖なるものはないとの結論に達し、失意のうちに還俗し、医師として故郷に帰ったのです。

その後、隣りに建った教会の献堂式に招かれ、出席しました。夫との問題を神に祈りましたが、自分の理性で解決しようと思い、祈るのをやめました。しかし、問題は解決せず、病弱な夫に愛のある看病をしたいと思ってもできませんでした。愛がなく、夫を赦していない自分に気付かされても、偽善の罪のどん底に追い込まれていきました。そんな時です。神は二度と教会に行くものかと思っていた私をも見放さず、見捨てず教会の特別集会に導いて下さいました。み言葉や賛美を通して、「主を信じたい」との思いが与えられ、そのことを先生に告白しました。神は求める者に、創造主なる神を示して下さいました(ルカ11:9、創世記1:3)。神の前に罪を告白し、イエス様を救い主と信じた時、み言葉を通して罪の赦しの確信をいただくことができました(マルコ2:5、Ⅱコリント5:17)。次の日の朝、神の平安に満たされ、夫の看病に苦痛を感じなくなりました。幼い頃から求めていたものは、すべて主のうちにあったのです。



教会の各活動



ブレスの賛美
午後は、特別伝道集会(藤井圭子先生)が行われました。


今週~来週の予定

 

○婦人祈祷会 火曜日(7月15日)10:30~


聖書:マルコによる福音書1章35節
題:祈り
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:190,195


○聖書研究祈祷会 水曜日(7月16日)19:30~


聖書:マルコによる福音書10章17-31節
題:富める者と神の国
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:221、371,391


○主日礼拝 来週日曜日(7月20日)10:30~


招詞:ピリピ書2章10~11節
交読文:32  詩篇103篇
聖書:ヤコブ書1章16-18節
題:思い違いをしてはいけない
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:27、365、343