2013/11/24

主日礼拝「聖徒の愛の祈り」

礼拝メッセージ 「聖徒の愛の祈り」 エペソ人への手紙3章14~21節

長谷川ひさい師






パウロは主が生きておられる時に、一緒に生活した弟子ではありませんでしたが、主と父なる神によって使徒とされました(使徒9章、ガラテヤ1章)。そのパウロはエペソの教会に手紙を書き、膝をかがめて祈りました(14)。私たちは心と口をひとつにして、神の臨在の前で謙虚になって、心の膝をかがめて祈ることがとても大切です(詩46:10)

.キリストのみ救いに預かり、神の家族とされた者は、主が天の父に祈ったように(15)、弟子たちも、「天にいますわれらの父よ」と祈るように教えられました(マタイ6章)。私たちが「天の父」と祈れるのは、聖霊によるのです(ガラテヤ4:6)。天の父である神といのちの関係をもって祈れるとは、なんという幸福でしょう。これがクリスチャンの救われた恵みであり、この地上のいかなるものにも比べられない大きな恵みです。しかし、救われながら天の父に祈らない生活をしているとしたら、窒息して死んでしまいます。天の父はすべてをご存じであり、私たちの求めるところをはるかに超えてかなえてくださるお方です。天の父と命の関係を頂いたのですから、信頼をもって、信じて、祈りましょう。

.パウロはエペソの救われた者のために、父なる神の栄光の豊かさによって、内なる人を強くし、主が心の内に住んでくださるようにと祈りました(16)。失敗しない自分を追い求め、自分は絶対に正しいというところに立とうとする信仰には、無理が生じます。パウロは不完全な自分、罪深い愚かな自分、正しくないことだと思ってもやってしまう自分を心の底から認め、私は罪人の頭ですと、神に告白しました。そして、神に祈り求め、内なる人を強くして頂いたからこそ、神にすべてをお任せし、エペソのクリスチャンのために、心の底から祈り求めることができたのです。

.キリストが内に住むとは、愛の生活、愛の生涯を生きるということです(17)。自分のありのままの姿を認めて神の前に出る時、そのままの自分を無条件で愛し、こんな私の罪ために十字架の上で血潮を流し、愛し抜いてくださった主の愛を知り、聖霊によって、自分の罪を認めて告白することができるのです。私たちが生きているのは、私を愛し、ご自身をお捨てになった主の愛によるのであり、その神の御子を信じる信仰によるのです(ガラテヤ2:19-20)。主の愛に勝る愛は、この世にありません。この愛は永遠に変わらず、真実を尽くしてくださいます。このお方に出会ったパウロも、私たちも、信仰の確信の中で生かされているのです。スタンレー・ジョーンズ博士は、キリストの血がきよめてくださるということは、人間の過去のすべての心の傷を無意識の中にも癒してくださるのだと語っています。新聖歌104番はまさしく博士の言われるように、心理学でさえもなしえないことが、キリストにあって可能だと教えてくれます。

.主の愛を実感していく生活は、すべての救われた聖徒と共に、礼拝の中で、祈祷会の中で、交わりの中において体験することができます(18)。パウロはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを、知性の許す限り理解し、体験を通して、悟ることができるように、そして、満たされるようにと祈りました。それは個人的、神秘的、思想的に理解するというのではなく、教会の兄姉に起きた問題に、心を一つにして祈る中で示されてゆくのです。いよいよ、私たちも互いに愛し合い、支え合い、互いの重荷を負い合い、祈り合う中で、主の愛をますます体験させて頂きましょう。そして、御霊によって内なる人を強めて頂き、心の内にキリストが住み、神の栄光を表す祈りの人、愛の人とならせて頂きましょう。パウロの祈りを、私たちひとりひとりの切なる祈りとさせて頂きましょう。



教会の各活動


午後は、壮年会・青年会(クリスマスの準備)、婦人会(クリスマス会)が行われました。

今週~来週の予定


■婦人祈祷会 火曜日(26日)10:30~


聖書:ヤコブ書4章11節
題:ゴミ処理はできていますか 説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:211、302

■聖書研究祈祷会 水曜日(27日)19:30~


聖書:マルコによる福音書16章1~8節
題:あの方はよみがえられた
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:252、339、242

■第一アドベント礼拝 来週日曜日(1日)10:30~


招詞:詩篇29篇1~2節
交読文:52 ルカによる福音書1章
聖書:ルカによる福音書1章8~15節
題:お言葉どおりこの身に
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:7、68、67