2013/06/02

主日礼拝「我が前を歩む全き者であれ」

礼拝メッセージ 「我が前を歩む全き者であれ」 創世記16章15節~17章27節

長谷川和雄師






神はアブラムに星を見せ、み言葉と契約による保証を与えられました(15)今日の箇所に、人の不誠実と神の誠実を見ることができます。
Ⅰ、不誠実な歩み(16:1~16)・・・カナンに移り住んで10年、アブラムには神との親しい交わりと神の約束が繰り返され、彼の信仰は増し加えられました。しかし、子どもが与えられませんでした。アブラムは子どもを与えると約束された神に頼るべきでしたが、自分の知恵や知識と妻の誘惑に負けてしまい、ハガルは身ごもって傲慢になり、サライを見下しました。また、サライはハガルをいじめるようになったので家庭の平和が乱れました。彼らは神の前に、神の約束に対し、不誠実でした。しかし、主はサライのもとから逃げ出したハガルをも憐れみ、サライのもとに帰って身を低くして仕え、子どもを産むようにと言われました。老いたアブラムはイシマエルが生まれると、彼を愛し、大切に育てました。しかし、聖書にその後の13年間が空白なのは、アブラムが神との交わりよりも、与えられた子どもに満足した歩みをしたからでしょう。素晴らしい神体験をしても、感情に頼っていると、いつしか自分が何でも出来るように思い込み、信仰が鈍くなり、神の語りかけが分からなくなるので気をつけましょう。
Ⅱ、全き信仰71~8)・・・アブラムが99歳、妻サライも89歳と年老いていましたので、人間的常識から考えても、二人から子どもが生まれるとは考えられませんでした。約束の子はイシマエルであろうと思っていた頃、主はアブラムに現れ、「わたしは全能の神である」、神には不可能なことは何もないと語られました。「わたしの前に歩み」とは、見える現実が絶望的状況であっても、希望を失わず、何でも行える全能の神を信じる信仰によって歩むことです。「全き者であれ」とは、自分の力できよく完全な者になれというのではなく、全能の神を信じ、より頼んで歩めということです。神が彼に現れたのは、彼が自分の可能性を失い、自らの弱さを認めてからでした。私たちも神の前に自らの弱さを認めるときでした。アブラムが全能の神の前にひれ伏し、語られるみ言葉を受け入れたとき、神は彼に約束を与えて下さいました。臨在を持ち運ぶ器とは、この全能の神の前に生きる人のことです。神により、アブラム(高貴な父)の名に」(が加えられ、アブラハム(命あるもの)となり、サライはサラ(国々の母)と改名されました。神の前に砕かれ、神に全く依り頼んだアブラハムを、神は祝福されました。
Ⅲ、契約のしるし(17:9~27)・・・前の契約は神からの一方的なものでしたが、今度は、約束を与えられた神が、アブラハムに犠牲(割礼)を求められました。当時、割礼は多くの人々の間で、結束を図るために行われました。神が求められた割礼は何でしょう。聖別です。選ばれた民の世からの分離、他のものと別たれて神のものとされ、神と親しく交わる神の友とされることです(ヤコブ2:23、ヨハネ15:15、ピリピ3:3、Ⅱコリント6:1618)。純潔です。罪の生活を切り捨て、神と自分との間に、何をも入れないで、真実・誠実であれということです。傷みを負っても、忠実に従うことです。アブラハムと彼に属する者はみな割礼を行い、主に従いました。主はそのような彼らを祝福し、み言葉を成就し、喜びの笑い(イサク)を与えて下さいました。失ったものよりも、受けるものは何と豊かでしょうか。私たちも全能の神の前に歩み、神を信じより頼む全き者とならせていただき、日々、全能の神を体験させていただきましょう。



教会の各活動


礼拝の中で、聖餐を行いました。現在は毎月第1主日(第1日曜日)に聖餐を行っています。

午後は教会役員会が行われました。


今週~来週の予定


■婦人祈祷会 火曜日( 4日)10:30~


 ※教区婦人部祈りの家清掃のため、休会します


■聖書研究祈祷会 水曜日( 5日)19:30~


聖書:ヨハネ14章26~27節
題:父が遣わされる聖霊
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:265、414、317

■主日礼拝 来週日曜日(9日)10:30~


招詞:詩篇100篇1~5節
交読文:32 詩篇103篇
聖書:Ⅱコリント2章14~17節
題:キリストのかおり
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2,433,429