2013年3月31日日曜日

イースター礼拝「共に歩む愛の主」

イースター礼拝メッセージ 「共に歩む愛の主」 ルカによる福音書24章13~35節

長谷川和雄師




受洗式の様子

イースターイエス様がただの人ではなく、神の独り子であることを証明された復活の記念日です。もし、主の復活がなかったなら私たちの信仰は空しいものでした

Ⅰ、閉ざされた目。復活された主は、愛する弟子たちに現れて下さいました。しかし、弟子たちは主を愛していたにもかかわらず、目の前に現れた方を主と悟ることが出来ませんでした。それは彼らの目がくらんでいたからです。1)目がくらむ条件。①世のことに心を奪われているからです。この世のものは、私たちの目をくらませ、真理を分からないようにします。真の神以外のものに目を向けさせ、主を見えなくし、真の神のことを忘れさせます。そして、(わな)に陥れ、だまし、この世のものを第1とさせ、神として拝みたくなるように誘惑します。心におおいがあると、み言葉を聖書物語としてしか読めず、神の言葉として受け入れることができません(Ⅱコリント3:15-4:4)神以外のものを求めているからです。人間の欲望が世の富名誉快楽楽しみ自分の正しさを求めて嘘をつき人を騙し悪の道に向かわせ信仰聖さ真の愛などを求めさせなくなり、放蕩の道に進み、神を見失わせるからです(Ⅱテモテ4:10)2)失望によって目がくらむ。①エマオ途上の弟子たちも、主がイスラエルを救うことを期待していました(21)。しかし、主の一連の出来事、そして死によって心も傷つき、深く悲しみ、期待が外れたと落胆して心を閉ざし、失望していました。だから、み使いが主の復活を告げても信じられませんでした(17-18)世の人は、クリスチャンに自分に欠けているもの(忍耐、情け深さなど)を求め、この世的期待をよせますが、求める先が異なっているので失望します。主が私たちに期待されているのは、自分の罪を認め、主の憐れみを求めて神に近づき、聖さを求め、日々、十字架を仰ぐ道を歩むことです。

Ⅱ、開かれた目と心。復活の主は、どのようにして彼らの目と心を開かれたのでしょう。1)開かれた目。主は、弟子たちに「私を見なさい」と言われたのではなく、聖書から、キリストの苦しみと栄光を説き明かされました。主は、現実だけに目を向けて失望している彼らに対し、神のみ言葉に目を向けさせました。主ご自身が説き明かして下さったことにより、彼らの目は開かれ、真実を見、悟ることができました(25-31)2)開かれた心。弟子たちは、主が聖書を説き明かされている間、心は熱く燃え、信仰の話で盛り上がりました(32)世の出来事ではなく、信仰や聖書について語り合うことによって、互いに慰められ、励まされ、新しい力となり、希望がわいてきました。み言葉に立つ時、神が目と心を開いて下さいます(31,45)心が開かれないと、理論や経験や思想や考えで、律法や常識で主を判断しようとします。しかし、主によって心の目が開かれると、福音のすべてが開かれ、理解し、悟り、主を信じられるのです。内から沸きあがる喜びに満たされ、新しい力と希望が溢れるので、外向きの顔を作る必要がありません。心を開くのは努力や説得、経験や体験、私たちの何かではなく、イエス様です。主が約束された聖霊によって心が開かれるのです。信仰はみ言葉を聞くことから始まります(ローマ10:17)聖霊が働きかけて下さると、罪がわかって告白する心が与えられ、救い主として受け入れ、証しをする者とされます。開かれた心は、主の臨在が分かり、うちに燃える愛の心と真の自由が与えられ、真の希望と喜びを得ます。私たちも自分の考えや知識で判断し、心が鈍くなっていませんか。神は弱い者、無に等しい者を選ばれます(Ⅰコリント1:182629)。心を開いてみ言葉を聴き受け入れ(マタイ7:13)、信仰の恵みを分かち合いましょう。


教会の各活動


本日より、辰野教会より転任された長谷川和雄牧師・ひさい副牧師が当教会の主管として奉仕されることになりました。

礼拝にて、女性の方が一人、受洗されました。

礼拝後、CSのイースター朝食会が行われました。


今週~来週の予定

■聖書研究祈祷会 水曜日(4月3日)19:30~


説教者:長谷川和雄師

■主日礼拝 来週日曜日(4月7日)10:30~

招きの言葉: 詩篇27:8
交読文: 22 詩篇65
賛美: 7、398、316
聖書: 創世記11:26~12:4
説教題: 「み言葉に従う歩み」