月別: 2009年11月


主日礼拝「キリストの降誕~神の受肉」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
ヨハネによる福音書1章14~18節
説教題
キリストの降誕~神の受肉
説教者
加藤郁生師
出席者数
61人

聖書: ヨハネによる福音書1章14-18節 (中心聖句は14節) 口語訳

14
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16
わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

礼拝メッセージの要約 「キリストの降誕~神の受肉」 加藤郁生師

「そして言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それはひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」

神の子キリストの降誕、それは歴史上いまだかつてない出来事でした。 なぜならそれは、神が人となるという事件だったからです。

  1. 言葉は神であった

    ギリシャ語で使われている「言葉(ロゴス)」は、この世界を創造し保持する原理を意味しています。 福音書の著者ヨハネは、これに深い意味を込めました。 言葉はキリストを意味しました。 しかもその言葉(キリスト)は神でした。偉大なる神がキリストである。 これが聖書の根本真理です。

  2. 言葉は肉体となり

    その言葉、即ちキリストが肉体となった。 キリストの受肉です。 と、あっさり申しますが、考えてみたらこれほどの驚きは他にありません。 この世界を創造された神が、人と同じレベルに降りてくださる。 無限の神が有限の世界に突入してくださる。 人間の想像を超えているではありませんか。

  3. わたしたちのうちに宿った

    神なるキリストはわたしたちの所に、神が幕屋に住むようにしてお宿りくださいました。 考えて見ればモーセの時代、ダビデの時代と、幕屋に臨在される主でした。 しかし、今やこの世界に直接、肉体としてお宿りくださったのです。

    わたしたちの最も遠いお方が、わたしたちの最も近いお方となってくださった。 それがクリスマスに与えられたわたしたちへのグッド・ニュースです!

09:30より、教会学校 が行われました。

テーマ
イザヤの幻
みことば
イザヤ書9章1~7節
出席者数
12人(生徒のみ集計)

午後より、教会役員会、青年会(クリスマス準備) が行われました。

19:00より、夕拝 が行われました。

出席者数
4人


主日礼拝「信仰の原点~聖なる神をおそれる」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
イザヤ書6章1~8節
説教題
信仰の原点~聖なる神をおそれる
説教者
加藤郁生師
出席者数
61人

聖書: イザヤ書6章1-8節 (中心聖句は3節) 口語訳

1
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
2
その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
3
互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
4
その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
5
その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6
この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
7
わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
8
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

礼拝メッセージの要約 「信仰の原点~聖なる神をおそれる」 加藤郁生師

聖書を読んで気がつくことは、人が神と出会う時に、人の心に生じるおそれの感情です。 アブラハム、モーセも、神の御顕現にふれ、神を恐れました。

そして、イザヤも同様でした。 イザヤは神の前に立ち、その人生の決定的な転機を迎えることになりました。

  1. 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」

    イザヤは聖なる神の前に出ました。必然的にイザヤは、自分の卑小たることを悟りました。

    「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」

    圧倒的な神の臨在に触れ、聖なる神を恐れる、イザヤの心の底から出た真実の告白でした。

    もし、わたしたちがイザヤと同じような体験をしたら、わたしたちは何を告白するでしょう。 同じように自らの罪を神に言い表わし、絶望する以外のことがありえるでしょうか。

  2. 「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」

    しかしここからイザヤは、恵みの体験をすることになります。 神は、罪を自覚し恐れ入るイザヤの口を火をもってきよめられました。 聖なるおそるべきお方は、同時に恵みと救いの主でありました。

    イザヤはこの神の恵みをどれほど深く覚えたことでしょう。 それは神をおそれる正しい感覚、感情を持つことによってこそ知り得る恵みの深さでした。

  3. 「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」

    「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」という神の声に、罪のゆるしを受けたイザヤは応答せずにはいられませんでした。 もちろん、神が命じる使命は容易ではありません。 しかし、神の恵みに感じたイザヤには、その道以外には考えられませんでした。

イザヤは神と出会い、神をおそれる体験から人生が変わりました。 わたしたちの人生はどうでしょうか。

わたしたちの真実の人生は、わたしたちが神と出会い、神の偉大さに触れ、真に畏れ敬う所から、開かれていきます。 神をおそれましょう!

09:30より、教会学校 が行われました。

テーマ
収穫の感謝
みことば
マラキ書3章6~12節
出席者数
12人(生徒のみ集計)

午後より、クリスマスの飾り付け、壮年会(クリスマス準備)、婦人会(クリスマス会) が行われました。

19:00より、夕拝 が行われました。

出席者数
4人


主日礼拝「神と共に歩む幸いな人生」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
創世記5章21~24節、6章9節、17章1節
説教題
神と共に歩む幸いな人生
説教者
加藤郁生師
出席者数
62人

聖書: 創世記5章21-24節 口語訳

21
エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。
22
エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。
23
エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。
24
エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。

聖書: 創世記6章9節 口語訳

9
ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

聖書: 創世記17章1節 (中心聖句は1節) 口語訳

1
アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

礼拝メッセージの要約 「神と共に歩む幸いな人生」 加藤郁生師

わたしたちの人生に共に歩む同伴者を持つことができるならば、どれほど幸いでしょうか。 しかも、それがわたしたちにとって最上の同伴者としたら?

神様は、そのようなわたしたちの願いをかなえてくださるお方の様です。 旧約聖書を見ますと、神と共に歩むことのできた幸いな人々を見出します。

  1. エノク

    「エノクは神と共に歩んだ」ということが2回も聖書に記されています。 他の人びとは、人生を「生き」「死に」ました。 しかしエノクは、神と共に歩きました。 エノクはきっと、神と歩調を合わせ、神の声を聞き、神との親しい交わりに生きたのでしょう。

  2. ノア

    ノアも神と共に歩みました。 ノアは、神と共に歩んだので、神に、正しく全き人として認められました。 全き人というのは神の前に、全く罪を犯さず完全な生き方をした人と言う意味ではありません。 神と共に歩むことのできた人です。 ノアはそれを証明しました。

  3. アブラハム

    アブラハムにも、神は、「わたしの前に歩み、全き者であれ」と命じました。 神は不可能なことを命じる方ではありません。 アブラハムが、神と共に歩むなら、全き者にしてくださるのです。

あなたは今、神と共に歩んでいるでしょうか。 もしそうであれば、幸いです。 そうでなくても、大丈夫。 神はいつでもあなたの同伴者となってくださいます。 安心して主と共に歩みましょう。

09:30より、教会学校 が行われました。

今日は 教会学校デー として、全分級合同の礼拝となり、生徒の方の証しも行われました。

テーマ
三青年
みことば
ダニエル書3章1~30節
出席者数
12人(生徒のみ集計)

午後より、会堂大掃除 が行われました。

19:00より、夕拝 が行われました。

出席者数
2人


主日礼拝「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
エゼキエル書37章1~14節
説教題
枯れた骨よ、主の言葉を聞け
説教者
加藤郁生師
出席者数
64人

聖書: エゼキエル書37章1-14節 (中心聖句は4節) 口語訳

1
主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
2
彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
3
彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
4
彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
5
主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
6
わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
7
わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
8
わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
9
時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
10
そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
11
そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
12
それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
13
わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
14
わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。

礼拝メッセージの要約 「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」 加藤郁生師

イスラエル人にとって、バビロン捕囚は最も悲惨な体験でした。 エルサレムは焼かれ、人びとはバビロンに捕え移されました。 日本で言うならば、東京が焼かれ、都民が強制移住させられ、国も他国に併合されたようなものです。 このような中で希望を見出すことは至難でしょう。

しかし、捕囚の地バビロンにて、イスラエルの回復の幻を見た預言者がいました。 それがエゼキエルです。

エゼキエルは、枯れた骨の谷の幻を見ました。 神が「これらの骨に預言して、言え」と命ずると、何と骨は、人の群れとなりました。 それはイスラエルがたとえ骨の様な有様であっても、必ず生き返ることのメッセージでした。

この預言を、現代に生きるわたしたちはどう受け止めるでしょうか。 まず、わたしたちは、自分が枯れた骨であるということを自覚しなければなりません。 わたしたちが信仰を失う時、わたしたちの教会が宣教の情熱を失う時、そしてわたしたちの国が神の前にきよい倫理を失う時、たとえどんなに物質的に反映していても枯れた骨なのです。

そんなわたしたちですから、主の言葉を聞かなければなりません。

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」

み言葉こそが、わたしたちを生かす力です。 わたしたたちは、福音のみ言葉を聞き、そして語らなければならないのです。 枯れた骨を生かすいのちのみ言葉を、この世界に満たすという大いなるヴィジョンをもって、宣教に励むお互いとさせていただきましょう。

09:30より、教会学校 が行われました。

テーマ
ダニエル
みことば
ダニエル書2章25~49節
出席者数
12人(生徒のみ集計)

午後より、CS教師会 が行われました。

19:00より、夕拝 が行われました。

出席者数
6人


主日礼拝「深い淵から~信仰者の望み」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
詩篇130篇
説教題
深い淵から~信仰者の望み
説教者
加藤郁生師
出席者数
71人

聖書: 詩篇130章1-8節 (中心聖句は1節) 口語訳

1
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
2
主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
3
主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
4
しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
5
わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
6
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
7
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
8
主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます。

礼拝メッセージの要約 「深い淵から~信仰者の望み」 加藤郁生師

聖書の詩篇には、「嘆きの歌」と称される種類のものがあります。 詩篇の作者が、苦しみや悲しみの中で、そのことを神に嘆き、救いを求めて祈るのです。

ここに取り上げています詩篇130篇もその一つですが、ここで作者は「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」と記します。

  1. 罪の深い淵

    人間にとって深い淵とは何でしょうか? 一つにそれは、人間を支配する罪の淵かもしれません。 この詩篇の作者も、2節で、主なる神が人間の不義(罪)に目をとめるなら、誰も前に立つことができないことを告白しています。

    しかし、同時に作者は、「しかしあなたには、ゆるしがある」と、神のあがないのゆるしへの期待を表明します。

    そうです。 主は、十字架のあがないによるゆるしをもって、わたしたちを罪の深い淵より引き上げてくださるお方なのです。

  2. 絶望の深い淵

    わたしたちが、試練や困難に会う時、わたしたちは絶望の淵に沈みます。 その底はあまりに暗く、わたしたちはどうする手立てもありませんが、しかし、聖書は、そのような時にこそ、主に呼ばわることを教えます。

    その意味で、信仰者とは、「深い淵で主に呼ばわることを止めない者」と定義することができるかも知れません。

あなたも今、深い淵にいますでしょうか? あなたも今、主に呼ばわっているでしょうか?

主はわたしたちがどんなに深い淵にあっても答えてくださるお方なのです。

09:30より、教会学校 が行われました。

テーマ
エゼキエル
みことば
エゼキエル書47章1~12節
出席者数
13人(生徒のみ集計)

午後より、教会クリスマス委員会、教会役員会 が行われました。

19:00より、夕拝 が行われました。

出席者数
3人